岩絵の具のマットな色、ツヤがないのに色彩が落ち着いていてビビットであるというのは、
私にとって非常にインパクトがあった。
それまで私は日本画をあまり知らなかったので、あえて日本画を選択してみようと思い多摩美術大学に入学しました。
そこで担任されたのが加山又造先生だったんです。
とてもラッキーでした。そこでの教えが私のベースになっています。
猫などのいきものを描くことについて
岩絵の具に接すると感じるんですが、岩絵の具を使えるまでに時間がかかるんです。
私の場合、物を見る眼というのが、印象派的な油絵での光と影という捉え方をしていたなとつくづく感じたんです。
岩絵の具で光と影を描こうとしたら、そうはいかない。
影を描こうと思ったら、汚れのようになってしまう。
粉の絵の具の特質をどうやって自分は表現していけばいいのかという思いがありました。
生きているっていうことを描きたかったんですが、当時、人物を描くのに悩んでいたところ、
たまたま家に猫がたくさんいたんです。それで猫をスケッチしていて、猫というのはあまり光と影がないことに気付いた。
マットな感じで光を吸収してしまうので、黒猫が黒光りしていても、黒い絵の具で表現すればいい。
例えば、菱田春草の黒猫はほぼ黒色で、光も影も出ていない。
猫を描くことによって、「ああ、こうすればいいんだ」とか、ようやく物の見方の転換が猫によってできたわけです。
それから、猫のフォルムが面白いので、ますますそこにのめりこんでいった。
生きているという自分の実感もそうですが、猫が生きていることというのは、客観的でとてもわかりやすいんです。
小さなところに宿っている命、宝石のように輝く命を描きたいという思いで、今に至っています。
最近はそこから、いきなり狛犬なんかに飛んでいってしまったという感じですね。
実在するもの、しないもの、そういうものは突然描こうと思われたんですか?
ひとつの祈りみたいなものがあります。
一緒に暮らしていた猫たちは今までで総勢50匹くらいになるんですが、
その猫たちが、今もどこかにいて、それは天国みたいなところに行っているんだろうという想いが常にあります。
おそらく狛犬とか龍とかは人々の祈りが形になったものなのではないかなと思うんです。
日々の創作活動の中で、動物たちが教えてくれた、今ここに生きているという《命》への感謝の祈りの形でしょうか。
猫は大好きですよね。(笑)
どれくらいお好きなのかをお聞きしたいんですが・・・。
近々猫が一匹家に来るんですが、実は当初怪我をしていて安楽死も覚悟せざるを得ない状況だったんです。
そのとき、娘がどうしても救って欲しいと言ったんです。
手術後に猫は痛みで苦しみ、その猫の痛みに自分が耐えられないんです。
でも、そこで冷静になって、何て自分は矛盾しているんだろうと感じるんですね。
たった一匹の猫に涙を注いでも、数知れない猫がいろんな犠牲になっているわけですから・・・・矛盾ですね。
私は猫を通して、生きていくとか、死んでいくとかということや、人間のこの星での立ち位置、そんなことを教えてもらっている。猫は私にとってまたとない教師ですね。
花なども描かれていますが、今後の方向性なども含めてお話いただければと思います。
そうですね、花、植物っていうのは、わたしにとってはまだ謎のものですね。
木っていうのは、そこにいたまま動かないけれども地球を支えている。
そこから珠玉のように生まれ出るものの美しさというものをどのように描けばいいのかまだわからない。
花は美しいから描けないんだっていうだけでは済まされない凄さがある。
この生命体を表現したいっていう気持ちがここ最近強いですね。
植物をフィルムで撮影して早送りするとものすごく動いている。
この不思議さですね、生命体としての面白さ。
また、こんなに凄いデザインはないなと思います。
今後は、花や植物などの生命体の不思議さをもっともっと追求していきたいです。
2010年5月 ギャラリー通信27 インタビューより
☆ ロング・インタビューはこちらをご覧下さい。
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